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2008年10月12日

歌は言葉であるか。




歌は言葉であるか。




私たち人間は大抵の場合毎日言葉をしゃべります。コンビニで買い物をするとき、友達への挨拶、世間話、blah blah blah.

そういった、いわゆる話し言葉に対して、私たちがこれまたほぼ毎日使うような言葉に書き言葉があります。まぁ、音声を媒介しているか、文字を媒介しているかという部分では違いますが、両方の言葉共、明白に意図することを伝えんとする(overtである)部分では共通しているでしょう。もちろん、これは皮肉や嫌味などは抜いて考えていますが。

しかし、この皮肉や嫌味、一見文字を媒介とした、明白に意図を伝えんとする言葉と同じに見えるけれど、実は本当のところ標記された言葉が本来意味するところとは逆の意図を持っているような言葉、そんなものもあります(上記したことと対照させるならば、covertである言葉)。ジョークなんかも時にはそんな一面を見せてくれますね。まぁ、それもある意味では皮肉や嫌味に編入して考えることができるでしょうが。

では、ほかにはどのようなものがあるでしょうか。

そう、例えば、詩があります。

詩的な言葉とは大体どこの国でもちんぷんかんぷんなものが多いです。そう、僕の言語理解能力が低いかどうかは別として。英語でもドイツ語でもマレー語でも中国語でも。特に作者独特の宇宙観や自然観みたいなものをうたった詩というのはその陶酔した感覚に自分も溶け込んでいかない限り、理解は非常に難しい。極めて一般的なテーマ、例えば、ノスタルジックな、子供時代の回想。母親が髪を梳く様子なんかをうたったリー・ヤン・リー(Li-Young Lee)の作品なんかもその例と言えるんではないでしょうか。詳述はしないとして。とにかく、その詩がうたう風景に溶け込まなければかなり理解するのが難しい。と、そのような意味において詩もまたcovertな言葉の一種であるといえます。

さぁ、やっと標記のテーマにたどり着きそうです。歌は言葉であるか。

インストゥルメンタルは少々違う語り口でアプローチしなければならないかと思うのでここでは歌詞を持つ歌のみを取り上げますが、歌もやはり上記してきたことと関連付けて考えるのならばやはり言葉といえるでしょう。そもそも歌詞はまた詩であるともいえるからです。合唱なんかでは実際の詩人の作品に音楽家が歌をつけて合唱曲になるということがかなり多く行われています。信長貴富さんの書かれた非常に素晴らしい男性合唱曲集の『新しい歌』中の一曲、「鎮魂歌へのリクエスト」は僕の大好きな詩人ラングストン・ヒューズ(Langston Huges)の詩に音を乗せたものですしね。

閑話休題

そう、歌も言葉なんです。聴いて癒されて、時には泣いて。耳から入ってくるものだけれども確かに私たちに語りかけてくる言葉。その意味は聴く人によってばらばらに解釈されえるんだろうけれども(素晴らしい歌は概してそういうものだと思いますが)。

なんでこんなこと長ったらしく書いたのか。

そこで一番上にのっけた写真です。エドワード・ホールの『沈黙の言葉』(写真の本は原書のThe Silent Language)を呼んでいてふとそんな気分になったから。というか、呼んでたら疲れちゃって違うことしたくなっちゃったのね。

そう、そんなこんなで僕が音楽やんのもそこそこに動機付けられたことなんだと勝手に納得したりして。

さて、続き読まなきゃね。



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